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9月5〜6日のTwitter投稿まとめ

■9月5日の生活記録■
長いつきあいになる先輩(50代半ば)。最近の変貌ぶりたるや目を瞠るばかりでおどろいている。それは失礼な言い方ながら、内面的成長、精神的発達などと行ってもいいものである。置かれた環境が激変したのも一つの要因ではあろうが、彼の中で何かがハジケたのではないかとも思われる。
一つ言えるとすれば、他者評価など意に介さない図太さと、にもかかわらず柔軟にモノを考えられるしなやかさを持ち合わせている先輩である。人はいつからでも変われることを、身をもって証してくれた先輩から、当面目が離せない。
写真は沖縄の思い出。


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巣鴨にて、ちゃんとした酸辣湯麺を、おそらく初めて食する。辛かったが美味かった。
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マッチポンプって批判はよく聞くけど、課題発見をして解決するというプロセスはマッチポンプ。いや批判してるんじゃなくて。人類の存在自体がマッチポンプ!


■9月6日の生活記録■
昨日はファミレスで自治会の会合。町内会は役職ごとに縦で動くことが多いが、われわれはできるだけ段取りや状況の共有をし合うことで、横の役員が何をしているか、どんな状況なのかを把握しようとしている。
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降りるべき駅で降り忘れたり、持ち帰るべきものを置き忘れたり、自転車の空気を入れ過ぎてパンクさせてしまったりと、ここのところ「ウッカリミス」が続いたが、昨日やったのはスイカとナナコを間違えてバスを降りようとしたこと。

写真は沖縄旅行の思い出。

 


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主客図式、つまり主観(読み手の意見・考え)と客観(書き手の主張・テクストに書かれていること)は、誰にとっても截然と切り離せるものである、という前提から逃れられないと、TAEのフェルトセンスとか、身体での前言語的な感覚から生じた「パターン」とか言われても、なかなか腑に落ちない。

客観とは、実は多くの主観によって相互主観的に形成された社会的構築物であり、その気になればいつでも疑いうる虚構に過ぎず、それでも、ある種の客観が普遍的に思われるのは、それが多くの人のフェルトセンスに根ざした確たる実感(リアリティ)に支えられているからなのに。

入試現代文では、まず筆者の言いたいことを正確に読み取りなさい。そこに読者の主観は挟まずに、とにかく客観的読み取りに徹しなさい、と教える。入試問題とはそういうルールの上に成立したゲームであり、それがある種の現実的能力(マニュアルの読解や指令の伝達)に結びつくのも確かではある。

だが、そのゲームが文章読解の唯一のアプローチだと勘違いするところから、筆者の言いたいことを忖度し、空気や文脈を読んで正解を探しに行くハイコンテクスト社会、息苦しい同調圧力型社会が再生産されていく。そろそろそういう社会は卒業しないと。

僕にはTAEはそうした忖度社会から脱して、言葉を真に自分のものにし、言語主体として自らを立ち上げる一つの方法ではないかと思われる。

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ってわけで、久々の八王子駅前。

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